2016年
著者:尾崎 智子
所属:同志社大学

  • 社会文化
  • 歴史
 1924(大正14)年に設立された婦人参政権獲得期成同盟会は、翌年改称した婦選獲得同盟の名で現在でも知られている。同盟会は、平塚らいてう・市川房枝・奥むめおらの新婦人協会、ガントレット恒子・久布白落実らの日本基督教婦人参政権協会を糾合し、女性参政権獲得を目指すために創設された。戦前日本では、女性参政権はもちろん、女性には集会の自由がなく、弁護士にもなれなかったのだが、これら女性団体は1922 年に治安警察法、1933 年に弁護士法の改正によって、女性の集会の自由を認めさせ女性も弁護士になれるようにするなど、女性の権利拡張に大きく貢献した。
 しかし、婦選獲得同盟も含め、とくに女性の権利拡張を求める団体が抱えていた共通の課題は資金難であった。たとえば、新婦人協会の事例をみよう。新婦人協会は、1919(大正8)年平塚らいてう・市川房枝・奥むめおを中心に結成され、前述した、女性に集会の自由を認める法改正を遂げた。だが先行研究によれば1、同会には結成の19 年11 月24 日から翌年3 月の発会式までに当時の金額で既に200 円の損失があり2、その後、雑誌『女性同盟』発行にともなう赤字も加わって金策に苦労したという。同会は、会員や支援者の寄付、永井柳太郎・星島二郎をはじめとする貴衆両院議員の寄付に頼ったばかりではなく、音楽会や観劇会、曲乗り飛行の鑑賞会を催し、チケット収入で借金を補填した。女性に財産権がなかったこともあり、当時の活動家の1 人は「婦人運動の永続が中々むづかしい」のは、本質的には「感情問題による仲間割れ」が原因ではなく「お金」の問題があるからだと雑誌に語ったほどだったという。結局、新婦人協会は1922 年12月には解散し、その活動は婦選獲得同盟に引き継がれた。
 婦選獲得同盟も資金繰りには苦労し3、設立の翌年3 月には麗日会を創設した。この組織は、婦選獲得同盟を資金援助する名士の集まりで、初回の催しは銀座資生堂で開いた「現代名家書画会」である。書画会にあたり麗日会では新渡戸稲造、竹久夢二、徳富蘇峰・蘆花兄弟ほか、柳原白蓮、与謝野鉄幹・晶子夫妻など著名人に出品を願い、2 日間にわたって販売した結果、863 円30 銭の売上(諸経費を差引いて490 円10 銭の利益)を得たという。また、新婦人協会同様、帝劇・明治座などのチケットを買い取って売り出したが、これは座席指定の切符を確実に渡す手続きが煩雑で役員の神経をすり減らしたようだ。これらの資金づくりは総じて「苦労の割に」利益が少なく、のちに同盟が資金源として重視したのが「代理部」の事業であった。
 「代理部」は、明治時代から多くの新聞社・雑誌社が設置した通信販売部門で、先行研究によれば4、委託販売であるために新聞社・雑誌社自身が在庫リスクを負うことがなく、広告料とともにメディアの安定的な収益源となっていた。同盟は1930 年度に試験的に代理部を設け、のちにはこの事業を本格化させて下着や化粧品などを販売した5。そして、1931(昭和6)年より取り扱いをはじめ、代理部の「目玉商品」の1 つとなったのが、静岡県の伊豆畜産販売購買利用組合から運ばれる「三島牛乳」だった。本稿は、この婦選獲得同盟代理部の牛乳販売事業の実態を明らかにする。
 現在まで、婦選獲得同盟に言及したジェンダー史の先行研究は多数に上っており、かつ同盟の機関誌『婦選』および『婦選獲得同盟会報』は復刻、(公財)市川房枝記念会が所蔵する史料の一部もマイクロフィルム化されるなど、一次史料も揃っている。しかし、同盟の財政状況を取り上げた研究は、管見の限り見当たらない。一方、東京市内での牛乳販売事業に関する研究も古くは1970 年代から行われており、本稿が扱う昭和初期は、明治時代から営業していた搾乳業者に対して練乳大企業が牛乳販売事業に参入する時期、そして搾乳業者らの「市乳」に対抗して伊豆地方をはじめとする近隣諸県からの「農乳」が市内へ入ってくる時期と位置付けられている。しかし、これら「農乳」の流通経路や消費者は誰かという点は検討されておらず、「農乳」の代表である三島牛乳と婦選獲得同盟との関係も看過されてきた。本稿は、以上の2 つの研究史のかい離を埋める意義があると考えている。本稿では、第1 に、婦選獲得同盟にとっての牛乳販売事業をとりあげ、第2 に、伊豆畜産販売購買利用組合にとっての、婦選獲得同盟への牛乳販売の役割を考察したい。
 
※平成28年度「乳の社会文化」学術研究

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2018年3月13日