「日本酪農之発祥地」における製乳事業創業期の酪農・製乳実態に関するフードシステム考古学的アプローチ
2013年
著者:日暮晃一
所属:特定非営利活動法人エコロジー&アーキスケープ
要旨
八代将軍徳川吉宗が江戸幕府直轄4牧の一つである嶺岡牧に、“嶺岡白牛酪”を製造することを目的として乳牛を放牧し搾乳を始めたことから、嶺岡牧は「日本酪農発祥之地」といわれている。さらに、明治前期に会社組織で酪農を行う嶺岡牧社、嶺岡畜産株式会社等が地元住民によって設立されたこと、製乳企業が早くから勃興し明治製菓、森永乳業など主要牛乳・乳製品製造企業の起業地となったことから、嶺岡地域は日本の近代酪農をリードした地域であり牛乳・乳製品のある食生活の原点になった地域といえる。その先駆性が、安房酪農を中心とした千葉県の生乳生産量が、長く日本第2位の座にあった要因と考えられる。しかし、安房酪農黎明期の酪農経営方式、製乳工場の実態、牛乳・乳製品の流通や地域内での消費に関する実態が未解明のまま残されているだけでなく、嶺岡牧の大きさや範囲、地域にあった黎明期の製乳業の所在地など基礎的なことさえもまったく明らかにされていなかった。そこで、2010年から嶺岡牧を含めた乳食文化の源に迫る上で必要な基礎データの収集を目的に、嶺岡牧の草地範囲やそれを囲う土手の構造と分布状況、明治前期の酪農遺跡の分布、製乳企業関連遺跡の確認などを行ってきた。それにより、江戸時代後期から明治時代にかけての放牧地の範囲がほぼ確定できたことや、明治製菓株式会社及び明治乳業株式会社の誕生地へと繋がる磯貝煉乳所跡や森永乳業の誕生に繋がる眞田煉乳所が建っていた場所等を確認することができた。そこで、本研究では、日本酪農発祥之地である嶺岡牧及び製乳業黎明期の練乳工場跡である眞田煉乳牛酪製造所跡の発掘調査を中心とした考古学研究、及び関係者のヒアリング調査、文書研究から黎明期における酪農の実態と製乳業の実態に迫ることとした。
発掘調査として、江戸時代は嶺岡牧の管理拠点であると同時に牛舎が置かれ、白牛の飼養と嶺岡白牛酪の製造も行っていた所であり、明治時代にはその資産を引き継いだ地域畜産会社である嶺岡牧社、嶺岡畜産会社の本社所在地となった八丁陣屋跡と、放牧型酪農の場を外部から仕切っていた嶺岡牧の野馬土手、そして嶺岡牧で搾乳された生乳を原料とした生乳工場であり、森永乳業の誕生地となった眞田煉乳牛酪製造所跡を調査することとした。しかし、八丁陣屋跡の地権者へ発掘調査の諾否について再三連絡をはかったが回答が得られなかったので、嶺岡西牧の野馬土手と眞田煉乳牛酪製造所の2箇所を発掘調査した。また、発掘により得られた結果を補完するための文書調査で、当地に残された3万点にのぼるとみられる文書のうち1万点の写真撮影を行った。この調査により、1)嶺岡牧の木戸口は城の虎口と同じ構造をしていること、2)野馬堀は通路としても使われていたこと、3)土手を最初に構築した時から1回補修しているが、その時に石積みを伴う門として木戸が造られたこと、4)明治期の石造技術で造られた石製の井戸枠が検出され眞田煉乳牛酪製造所の井戸跡と判断できること、が得られた。ヒアリング調査により、嶺岡5牧の一つである柱木牧から江戸に行く江戸道があり、南房総市大井から嶺岡牧に入り、鴨川市の平塚に抜け、金束を通って江戸(東京)に向かったという話が聞け、古文書に嶺岡白牛酪を製造するために嶺岡牧から江戸間での白牛母子を送った触書があることから、今回の発掘で検出した木戸は江戸の製乳工場と嶺岡牧とを結ぶ木戸で、やはり江戸幕府直轄牧だが酪農は行っていない小金牧や佐倉牧には無い城門様をなしていることが明らかとなった。また、明治から大正の製乳業の跡が遺存していることが明らかになったことから、今後当地の調査を続ければ基礎データが蓄積されることが明確になった。嶺岡牧を対象とした発掘調査は今回が初めてであるため、黎明期の乳食フードシステムの姿を明確にするには至っていないが、Food System Archaeology 研究のためのデータ収集の一歩を印すことができた。
書籍ページURL
https://j-milk.jp/report/paper/alliance/berohe000000jgqy.html
発掘調査として、江戸時代は嶺岡牧の管理拠点であると同時に牛舎が置かれ、白牛の飼養と嶺岡白牛酪の製造も行っていた所であり、明治時代にはその資産を引き継いだ地域畜産会社である嶺岡牧社、嶺岡畜産会社の本社所在地となった八丁陣屋跡と、放牧型酪農の場を外部から仕切っていた嶺岡牧の野馬土手、そして嶺岡牧で搾乳された生乳を原料とした生乳工場であり、森永乳業の誕生地となった眞田煉乳牛酪製造所跡を調査することとした。しかし、八丁陣屋跡の地権者へ発掘調査の諾否について再三連絡をはかったが回答が得られなかったので、嶺岡西牧の野馬土手と眞田煉乳牛酪製造所の2箇所を発掘調査した。また、発掘により得られた結果を補完するための文書調査で、当地に残された3万点にのぼるとみられる文書のうち1万点の写真撮影を行った。この調査により、1)嶺岡牧の木戸口は城の虎口と同じ構造をしていること、2)野馬堀は通路としても使われていたこと、3)土手を最初に構築した時から1回補修しているが、その時に石積みを伴う門として木戸が造られたこと、4)明治期の石造技術で造られた石製の井戸枠が検出され眞田煉乳牛酪製造所の井戸跡と判断できること、が得られた。ヒアリング調査により、嶺岡5牧の一つである柱木牧から江戸に行く江戸道があり、南房総市大井から嶺岡牧に入り、鴨川市の平塚に抜け、金束を通って江戸(東京)に向かったという話が聞け、古文書に嶺岡白牛酪を製造するために嶺岡牧から江戸間での白牛母子を送った触書があることから、今回の発掘で検出した木戸は江戸の製乳工場と嶺岡牧とを結ぶ木戸で、やはり江戸幕府直轄牧だが酪農は行っていない小金牧や佐倉牧には無い城門様をなしていることが明らかとなった。また、明治から大正の製乳業の跡が遺存していることが明らかになったことから、今後当地の調査を続ければ基礎データが蓄積されることが明確になった。嶺岡牧を対象とした発掘調査は今回が初めてであるため、黎明期の乳食フードシステムの姿を明確にするには至っていないが、Food System Archaeology 研究のためのデータ収集の一歩を印すことができた。
書籍ページURL
https://j-milk.jp/report/paper/alliance/berohe000000jgqy.html