古代日本のチーズ(角川選書277)
1996年
著者:廣野卓
所属:歴史科学研究会主宰
雑誌名・年・巻号頁:角川書店、1996年、全241頁
<要旨>
本書は、古代・中世における乳製品と日本人の関係性に焦点をあてたチーズの日本史ともいえる一書である。本書において、筆者は古代の乳製品「蘇」をチーズの祖型と見なし、古文献、古文書、古記録などを丹念に紐解きながら、日本のチーズのルーツの解明に挑んでいる。
本書の構成は、第一章が「古代のチーズ・世界のチーズ」として、「ミルク文化」の起源から、世界各地のチーズ文化の概況(種類、製法、期待されている効能など)、チーズの発祥に纏わる地域史などに割当てられている。また比較言語学、文化人類学、歴史学など様々な観点からチーズの概念を定義し、人類におけるチーズ文化の系譜もつぶさに紐解いている。なお筆者自身、第一章を「ミルク人類史」や「チーズ民族学」といった分野の概略で書いたと記しているように、本章はチーズ研究の概説としても参考になる。
第二章から第七章にかけては、古代日本のチーズ「蘇」の実態解明が、聖徳太子、長屋王、鑑真和上、醍醐天皇、「光源氏」、後醍醐天皇ら歴史上の人物と関連させながら、時代を追うかたちで試みられている。
筆者が提起するミルク文化の伝来ルート「ミルクロード」により受容された日本の乳製品文化。古代中国の仏典や医薬書(ルーツはインドとされる)で評価された乳製品の効能は、古代日本の本草書でも紹介され、仏教儀式の供物として、さらに上流階級の世界では貴重な薬用品として、その価値は享受された。
ちなみに日本最古の「蘇」の記録は、平安時代に成立した『政事要略』巻二十八「年中行事十二月上」にみえる「貢蘇」の記述とされている。なお当記録は、文武朝四年(七〇〇)のものとされ、以後諸国に造蘇が命じられ、国家的事業としての貢蘇制度が開始された。さらに著者は古代から中世までの貢蘇に関する古記録や古文書、木簡などを分析し、発展から衰退に向かう貢蘇制度の実態を詳らかにしている。しかし搾乳や製造面で貢蘇を支えた庶民たちにとって、「蘇」はあくまでも貴族の滋養薬であり、気軽に口に出来る代物ではなかった。さらに武士の世になると、度重なる戦乱、荘園の拡大による官牧の消滅などにより、古代に珍重された乳製品は、一旦日本の歴史上から姿を消してしまうこととなる。なお乳製品の再登場は、江戸時代の徳川吉宗の治世を待たねばならないのである。
さて筆者は、『延喜式』の「蘇」の再現実験にも重きを置いている。それによると、「焦げないように撹拌を絶やさず、とろ火で長時間じっくり濃縮すると粘土のような状態になり、これを練りながら乾燥させ、数日放置しておくと、展性が失われて落雁のような品質になる」とし、まるでパルメザンチーズのような形状になるとの興味深い検証結果も示している。
<コメント>
著者の廣野卓氏は、古代日本の食文化に造詣が深い食文化史家である。本書の魅力は、何といっても国内外の史資料を多用し、「蘇」を主軸としながら、古代・中世の乳製品史を解明しようとした廣野氏の意欲的な姿勢だろう。特に丹念に史資料を読み解く廣野氏の手法は、乳の食文化史と向き合う研究者に、多くの気づきを与えてくれる。(東四柳 祥子)