2014年
著者:板垣貴志
所属:神戸大学大学院人文学研究科特命講師(現島根大学法文学部・人文社会科学研究科准教授)
雑誌名・年・巻号頁:思文閣出版、2014年、全266頁

  • 社会文化
  • 歴史

<要約>

 本書は、筆者板垣貴志氏が神戸大学大学院へ提出した博士論文を基礎に、再構成された本である。島根県飯石郡鍋山村にある板垣家が持つ5000点余の古文書(附論に板垣家文書の史料群の全貌が述べられている)を分析することで、1887(明治20)年から1947(昭和22)年にかけての家畜預託慣行を明らかにした。
 板垣家は1887年に牛馬商の免許を取得し、家畜預託=周辺農家に牛を預託・賃貸借・共有することを行った。預託の主な形態は、仔牛生産を目的に牝牛を預託する「預け牛」、農繁期に使役用に牡牛を貸し出す「鞍下牛」の2種類である。中国山地は役牛馬の商品化が江戸時代より進展していた。なかでも、出雲地方は明治時代に入ってたたら製鉄が衰退し、これに代わりうる有力な地域産業がなかったために家畜預託慣行が拡大したという(終章 家畜預託慣行の盛衰と近代日本農村)。
 家畜預託慣行は、1920年代には「家畜小作」と名付けられ、通常の地主—小作関係同様、牛の持ち主と小作人が対立し合う旧弊だと否定的に理解されていた(第一章 家畜小作概念の再検討)。ところが、筆者は「預け牛」「鞍下牛」(くらしたうし)ともに牛の持ち主である牛持(うしもち)と預け先・貸出先は利害関係を同じくし、かつ相互扶助的な側面もある、対立し合う関係にはなかったと述べている。
 まず、本書は板垣家の牛関係の帳簿の推移から、同家が牛経営を本格化させたのは1880年代だとつきとめた。当時、デフレを背景に借金の担保や抵当流れによって板垣家に急速に牛が集積されたのである(第二章 牛生産地域における家畜所有の歴史的展開)。その後、1900年代末からら1910年代初頭にかけて前掲2種類の契約を柱とする《役牛の育成システム》が構築され、第一次大戦期には、大戦景気によって牛売買の最盛期を迎えた。第五章(鞍下牛慣行による役牛の循環と地域社会)では「鞍下牛」、第六章(中国山地の預け牛関係にみる信頼・保険・金融)では「預け牛」がとりあげられているが、この2つの形態のどちらも、牛持の収益は大きいものではなく、また預け先が負債をおったとしても牛持(うしもち)が見捨てることもなかった。家畜預託慣行は、地域社会における牛を介した調和と共存のための暗黙の不文律に則って行われており、筆者が家畜預託《経営》ではなくあえて《慣行》の言葉を用いるのはこれが単純な事業的な側面だけを持っていたわけではなかったからである。さらに、牛持は頑健で温順な「蔓牛」(血統牛)の開発に寄与し(第三章 中国山地における蔓牛造成の社会経済的要因)、また牛持と貸出先・預け先をつなぐ牛馬商は常連相手にのみ「鞍下牛」を貸出し、牛を酷使し過ぎるといったようなモラル・ハザードを防ぐ役割を果していた(第四章 中国山地における役牛の売買流通過程と牛馬商)。ところが、こうした牛を介した広域的で非制度的な《相互扶助ネットワーク》は、貨幣経済が急激に農村社会に浸透するにつれて変容し始める。1931(昭和6)年に満州事変が勃発して役牛の市場が急激に拡大すると、営利的な事業になっていく。預ける側(牛持)と預かる側(厩先)の両者にとって相互扶助的な慣行的側面と副業的利益追求を目的とする経営的側面が融合したものと捉えられる家畜預託慣行は衰退し、1930年代後半にはこれに代わる国家的制度が急速に普及していくのである。
 

<コメント>

 本書は、酪農業や乳牛の生産・飼育・流通を直接扱ってはいない。しかし、膨大な一次史料による綿密な実証は貴重で、今後の酪農乳業史研究に大きな示唆を与えるものとしてあえてとりあげた。
『東京集乳圏』(古今書院、1989年
http://m-alliance.j-milk.jp/senkou/shakaibunka/35_senko_shakai_2.html )
において斉藤功氏は、明治時代に東京市内の搾乳業者が神奈川県央部・伊豆半島・房総半島南部・伊豆七島等に牛を預託したことを契機としてこれらの地域に酪農業の発展したことを指摘した。斎藤氏がふれた乳牛の預託牛制度は本書で述べられた役肉牛の預託制度とは異なるものであろうし、この『東京集乳圏』はそもそも乳牛の預託制度は産業の発展を促したと肯定的に評価している。ただし、今後乳牛の預託制度を分析するにあたり、本書は、同じ牛というものの預託制度の実態を解明した書として分析の手本となってくれるのではないだろうか。(尾崎 智子)

2016年6月28日