2017年
著者:武田 尚子
所属:早稲田大学人間科学学術院・教授
発行・年・巻号頁:中央公論新社、2017年、全292頁

  • 社会文化
  • 酪農経済・経営

<書評>

 日本には150年前までミルクを飲む習慣がなく、役牛はいてもミルクを生産する洋牛はいなかった。その後、明治維新を経て急速に、乳業関連の起業家が生まれて洋牛が導入され、消費者にもミルクを受容する習慣が形成された。本書は、ミルク関連産業の勃興と定着を題材として、日本近代社会を分析する。扱う時期は、主に昭和初期まである。これまで『野菊の墓』の作者伊藤左千夫と牛乳の関係はある程度知られていたが、本書からは芥川龍之介の父、高砂部屋の創始者高砂浦三郎など意外な人物が乳業に関わっていたことがわかる。彼らの努力により、「こんな強烈な匂いと味なのに」(本書の帯による)と当初ミルクを敬遠していた日本人も、この飲み物に徐々に馴染んでいった。なお、「はじめに」によれば、本書では「牛乳」は文字通り牛から搾った乳、「ミルク」は牛およびそれ以外の動物から搾った乳に加え、それらを加工した粉乳・コンデンスミルクなど広い範囲の食物と定義する。
 本書の特徴の第一は、ミルク関連産業の起業家を ①近世の牧牛資源を核に形成された官有資源を活用し、かつ自らの「民間事業資源」を組み合わせて経済的、社会的リスクに柔軟に対応できる経営モデルを構築した企業経営モデル(たとえば渋沢栄一・益田孝らが出資した耕牧社)、②(i)企業経営モデルの企業においてミドルマネジメント層であった人物の自営業主への転身(たとえば、芥川龍之介の父新原敏三)、②(ii)企業経営モデルの企業において牛乳配達人からの自営業主への転身(たとえば、伊藤佐千夫)、と大きく2種類へ分類したことだろう。ミルク関連産業の勃興は士族授産の一環としてのみ捉えられてきたが、著者の指摘により今後は①だけではなく②も含めて産業の形成を論じる必要が生じたといえる。
 さらに、本書の特徴の第二は、ミルクを飲む習慣は栄養知識を得ることができ、ミルクを買える裕福な層から定着していったとしながらも(本書10ページ)、牛乳の福祉的配給の意義にも目を配っている点である。日本では、欧米では昔から牛乳が庶民にも飲まれる日常的な食品だっただろうと思われている。しかし、著者は、前著『20世紀イギリスの都市労働者と生活』(ミネルヴァ書房、 2014年)執筆時に、20世紀のイギリスにいた貧困層が、牛乳すら飲めずに配給に頼っていたことを知ったという。したがって、本書でも貧困層に対する目配りが利いている。たとえば、大正時代にミルク関連産業隆盛の要因となったキャラメル大流行と同時に、その裏にあるキャラメル女工の悲哀を描き、また関東大震災後のミルク緊急配布にも紙数を割く。その結果、本書によって、学生や富裕層、知識階級の飲み物として分析されてきたミルクに多面的に分析できる余地があることを示した。明治初期に東京のウォーターフロント=築地から売り出された牛乳、その後のミルク関連産業の発展を地図や模式図を数多く用いて示し、かつ出典も詳細にあげられている。今後、東京のミルク関連産業の研究は、本書を読むことから始まるだろう。(尾崎智子)

2018年10月17日