牛乳・乳製品の家庭生活への定着・浸透に尽力した人びと ~明治・大正期を中心に~
2014年
著者:東四柳 祥子
所属:梅花女子大学食文化学部食文化学科
緒言
日本人と乳製品の出会い。その歴史の端緒は、飛鳥時代にまで遡ることができる。欽明天皇の御治世下(531~71)、百済からの渡来人・智聡がもたらした医薬書164 巻の中に、牛乳の薬効、乳牛飼育法に関する記述が含まれていたとされ、これが日本における乳製品史の幕明けと考えられている。また智聡の子・善那は、孝徳天皇(在位645~54)に初めて牛乳を献上し、和薬使主の姓を拝命。後に福常と改名し、太政官典薬寮の職掌・乳長上に着任している。その後も善那の子孫が乳牛院や牛牧の管理者を歴任し、牛乳や酥(蘇)と呼ばれる乳製品の朝廷への献納(貢蘇の儀)を続けた。しかし薬用として、貴族の世界で重宝された乳製品も、平安末期には朝廷権力の失墜に伴う官牧の荘園化、軍馬の生産・飼育に伴う育牛の減少を機に、記録の中から消え去ってしまう。
乳製品の製造が再び復活の兆しをみせたのは、江戸期であった。享保年間(1716~36)には、八代将軍徳川吉宗が安房嶺岡に牧場を開設し、渡来した白牛の牛乳を煮固めた乳製品「白牛酪」を製造。さらに1792 年(寛政四)には、桃井寅が十一代将軍徳川家斉の命を受け、乳製品の効能についてまとめた『白牛酪考』を執筆している。本書は、乳製品について書かれた資料の嚆矢ともされ、白牛酪の効能を広く社会に知らしめることを目的に編まれたものであった。なお当時の白牛酪の様子について、代々嶺岡牧士をつとめた永井家の子孫・永井要一郎氏は「その白牛の乳から白牛酪というものをつくつたが、これは白牛の乳を鍋に入れて砂糖を混ぜ、火にかけて丹念に掻きまぜながら石鹸位の堅さになるまで煮つめたもので亀甲形にしてあった。そして非常に貴重なものとして病人などはそれを削つて、お茶で飲んだりなどしたといわれている」と述懐する。こうした証言からは、「白牛酪」もまた薬餌としての乳製品であり、日常的に用いられる食品ではなかった様子がうかがえる。
実際近世までの日本において、日本人と乳製品との関係が希薄だった様子は、明治期に来日したお雇い外国人たちのエッセイのなかでも確認できる。例えば東京帝国大学教師バシル・ホール・チェンバレンは、自著『日本事物誌』(初版1890 年)において、「最近まで日本人は牧場も持たず、また、農家に囲い地もなかった。羊や豚は知られておらず、牛でさえも少なかった。その肉や牛乳も食物として用いられてはいなかった」とも著している。
しかし幕末の開国以降、新たに受容された西洋食文化の影響により、日本の乳製品事情にも大きな転機が訪れる。これまでの薬餌的な意味合いとは別に、国是として掲げられた富国強兵政策の下、肉食同様、乳製品もまた文明開化を象徴する食品として注目されたのである。例えば明治初期に出版された『牛店雑談安愚楽鍋 一名奴論建 初編』(1871)では、「牛乳」「乾酪洋名チーズ」「乳油洋名ハタ」などの乳製品名が書かれた暖簾を出す「日の出屋」の様子が描かれ、これらを開化の「薬喰」食品であると紹介している。また同時期に出版されたアメリカの翻訳医学書『西洋養生論』(1873)にも、以下のような記述がみえる。
乳汁ハ食類中ノ最淡薄ナルモノニシテ滋養ニ於テ肝要ナル元質ヲ含有ス九ノ食品中乳汁ノ如ク普ク世上ニ行ハルゝモノハ有ラサルナリ北極ニ接近セル「ラプランド」人ハ鹿乳ヲ製造シテ至要ナル食物トス又熱帯地方炎々タル砂漠中ノ亞刺比亞人ハ駱駝羊、山羊等ノ乳汁ヲ製造シテ以テ補養物トス而テ又人口稠密ノ開化國、開路先鋒ノ架木舎ニハ牛乳ヲ以テ養生ノ一物ト為ス
上記の引用によれば、「ラプランド」人(ラップランド人)の「鹿乳」や「亞刺比亞」人の「駱駝羊、山羊等ノ乳汁」などの乳利用を例示しながら、「牛乳」が「開化國」の「養生ノ一物」であると説かれている。また「乳汁」は「体ノ滋養生長ニ緊要ナル元質」を含む「小児成人病中病後ニ甚タ有用貴重ノ食品」であるとも強調している。
いっぽう強壮な身体作りを目指すための乳製品摂取の必要を促す記述もまた明治初期の書籍の中でみられ始める。例えば『明治形勢一斑 巻之上』(1878)では、「外国人ノ説ニ、日本人ハ性質総テ智巧ナレトモ、根気甚乏シ、是肉食セザルニ因レリ、然レトモ、老成ノ者、今俄ニ肉食シタレバトテ、急ニ其験アルニ非ス、小児ノ内ヨリ、牛乳等ヲ以テ、養ヒ立テナハ自然根気ヲ増シ、身体モ随テ、強健ナルベシ」とあり、幼少期からの「牛乳等」の摂取が「根気」を鍛え、「強健」な肉体を得る手立てになるとある9)。さらに『通俗飲食養生鑑 食餌之部』(1879)においても、「哺乳動物の乳汁」から製する「牛酪」「乾酪」などの乳製品が、脂肪やたんぱく質に富む「不可欠な食料」になると説かれている。
実際明治期以降には、来日した西洋人のみならず、牛乳や乳製品を嗜む日本人も増え始めるようになり、その消費量も次第に増加をみせることとなった。なおこの時期の乳製品への関心の高まりに関して、『東京開化繁昌誌 初編巻之下』(1874)には、次のように記されている。
コンデンスウトミルグ乳の膩こき酪 ミルグバウタル煉乳 チイス乳の粉● バタ乳膩の最上品なり 等の四品製造のごときハ。各国の人員。誰が貴重せざるべき。本邦の人も亦服用する者漸に多かり。開化の著明所にして。繁昌無極の勢ひと謂べし。
また『農産製造篇』(1892)にも、「既ニシテ近時外国ト交通スルニ及ヒ世ノ好嗜自ラ變シ来タリ酪農産物ノ需用頓ニ増加シ其輸入量モ巨額ニ達シ國内亦タ幾多ノ酪農塲ヲ見ルニ及ベリ」とあり、「我國古代ノ酪農法」ではなく、「泰西ノ法」に基いた酪農技術が進歩しつつあるとの記述もみえる。以上までの引用を鑑みるに、乳製品を薬餌的な意味合いで捉えている点は、近世までの乳製品観と共通しているが、海外からの酪農技術に学ぶ姿勢や日常生活の中での食用をすすめる動きは、江戸期までにはみられなかった特質といえる。また西洋料理に触れる機会の増加に伴い、乳製品の需要は徐々に高まりをみせるようになり、大規模な酪農開拓や乳業ビジネスの本格化とともに、日本人の嗜好にあった国産乳製品の生産・改良も漸次推し進められていくこととなった。
なお近代日本における乳製品史を精査したものに、山内、窪田、日本乳製品史協会、野村、木村、雪印乳業株式会社広報室、細野らによる先行研究を確認した。しかしこれらのほとんどが酪農政策・乳業ビジネス面の系譜を詳らかにした研究であり、家庭生活への普及の糸口に迫る視点は未だ明らかにされていないように思われる。そこで本研究では、明治・大正期の日本で、海外からの知識の影響を受け、その効能が見直された牛乳・乳製品の家庭生活への導入過程を紐解くことを目指したい。また家庭生活へ牛乳・乳製品を定着させようと試行錯誤した先人たちの努力の軌跡を探るとともに、それぞれの貢献の意義と定着に果たした役割についても検討したいと考えた。
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■家庭生活への牛乳・乳製品の浸透 明治・大正期に果たした医療関係者の功績 (Jミルクのサイトへ)