2015年
著者:森田貴子
所属:学習院女子大学非常勤講師(早稲田大学文学学術院文化構想学部准教授)
雑誌名・年・巻号頁:学習院女子大学紀要、2015年、17号P35-49

  • 社会文化
  • 歴史

<要約>

 本論文は、千葉県文書館所蔵の石堂家文書をもとに、明治時代の嶺岡牧について明らかにしたものである。江戸から明治に入り土地所有のあり方が近代化される過程では、入会(一定の山林原野を共同利用する慣行)が行われていた土地で、新しい地主や借地人と入会慣行の継続を望む村との間で紛争が生じることが多い。江戸時代から畜産業を継続した嶺岡牧も例外ではなく、明治になって土地の官有地・民有地の区分がなされる際、入会地としての土地利用を望む近隣村落の間で、牧の土地利用と管理の問題が生じた。
 まず、明治前期に近隣村落は、度々嶺岡牧の払下げを出願した。出願の目的は、畜産業と同時に入会慣行を維持し、従来通りまぐさやたきぎの刈り取りを牧でしたいということだった。明治11(1878)年、入会慣行を重視する近隣村民に、士族授産をめざす新規加入者=士族層を交え、嶺岡牧社が設立される。同社は会社として必要な土手垣・道路修繕や牧の修繕・維持を周囲の村々(牧付村と呼ばれる江戸時代から「嶺岡御用」に携わっていた村々)に無料で負担させていたのだが、牧社の牛馬が村に出てしまうことと相俟って問題となった。結局、入会慣行を重視する近隣村民と、畜産業を重視する新規加入者=士族層によって運営された嶺岡牧社は、その複層的な構造ゆえに内部対立を起こし、明治16(1883)年に同社は早くも解散してしまう。
 次に、明治22(1889)年、嶺岡畜産会社が設立された。嶺岡牧社解散後、近隣村民が独自に牧の払下げを受けようとする動きが起こっていた。農商務省は嶺岡牧が民有地へ編入されて紛争が起きることを回避しようとしており、合せて農民へ畜産業を勧めるため、千葉県に牧を貸して嶺岡畜産会社設立に至ったのである。同社設立の目的は、①牧牛馬の改良繁殖売買②牧場改良③本社出張所・肥盈場・牛馬市場・牛乳販売所等の設置④牧牛の貸与・繁殖⑤種牧牛の設備と交尾料収納⑥各地営業者との情報交換、というものだった。資本金10万円2500株と嶺岡牧社(資本金6000円、120株)に比べて大きな規模でつくられた同社は、牧付村に株を7割以上配分した。牧付の村々は、土手垣などの修繕を無料で行う代わりに会社から利益が出れば配当金が得られる仕組みになったのである。さらに、江戸時代からの入会地利用を認め、畜産業と入会利用の両立を図っている。しかし、同社では牛馬の「斃死」が相次ぎ、農耕用として育てた牛は人に馴れず、乳牛となる牛は飼養が高価だったために上記①で示した牧牛馬の改良繁殖売買の採算がとれなかった(明治23~43年の嶺岡畜産会社収支が表4として掲載されている)。そのため、明治40(1907)年から牧の土地を近隣村々に売却、残った30町歩を千葉県に寄付して明治44(1911)年に嶺岡畜産会社は解散した。
 

<コメント>

近年、嶺岡牧の研究は進んでおり、日暮晃一「「日本酪農之発祥地」における製乳事業創業期の酪農・製乳実態に関するフードシステム考古学的アプローチ」(研究詳細http://m-alliance.j-milk.jp/ronbun/shakaibunka/shakai_study2013-01_1.html)で概要は明らかにされてきた。本研究は、上記共同研究では端境期とされ実態が明らかになっていなかった部分を古文書から詳細に明らかにしたものであり、近世近代移行期に畜産業と入会地利用の維持がどうなされてきたのか、嶺岡牧社・嶺岡畜産会社両者の経営状態など興味深い情報が多い。(尾崎 智子)

2016年6月28日