1995年
著者:伏木亨
所属:京都大学大学院農学研究科

  • 健康科学
  • 各ライフステージ

序論

脂肪組織の過剰な形成・蓄積が、肥満である。過栄養の環境が生じやすい経済的先進国においては、肥満は多くの生活習慣病(成人病)の基盤と考えられ、その対策は予防医学上重要な課題とされている。従来、肥満に関しては必ずしも科学的な分析が行われておらず、また肥満がなぜ多くの生活習慣病の発症基盤となるかについても科学約な解明が充分ではなかった。しかしながら、近年の分子生物学的な研究手法の発展に伴い、脂肪組織を構成する脂肪細胞の分化総御機構、さらには生活習慣病発症と深く関わる因子類の脂肪細胞での生成・分泌など興味深い新しい知見が多数蓄積してきた。ごく最近、脂肪細胞自身が、糖尿病を誘発するインスリン抵抗性の原因物質となる主要壊死因子(TNF-α)や高血圧の原因となるアンジオテンシン2を分泌することが明らかとなってきた。つまり分泌細胞としての脂肪細胞の機能が判明した。従って、このような疾患の予防・治療には、肥満つまり脂肪組織の過形成の改善や抑制が本質的に重要であると考えられる。
脂肪組織は、生体内の余剰エネルギーを脂肪の形で貯め込む特殊な器官である。この組織は、白色脂肪細胞、その前駆細胞を含む線維芽細胞、マクロファージ、血管周囲細胞、血液細胞などから構成されている。脂肪細胞を除いたこれらの細胞(画分)は、間質派管系細胞(stromal vascular cells :SVC、stromal vascular fraction :SVF)とよばれている。脂肪細胞の数は、ヒト成人でおよそ300億個、肥満者ででは400-600億個にも達する。これはヒトの体を機成する細胞のおよそ0.5-1%であるが、重量では通常約20%前後、肥満者では30-40%まで達する。脂肪細胞の直後は、10μmから200μmまでさまざまであり、これは直径で20倍、容積で400倍ものバリエーションを意味し、このような容積変化のある細胞は他に類を見ない。これには細胞肉骨格、特にvimentinによる裏打ち構造が寄与していることが示唆されている。1個の成熟脂肪細胞には通常0.5-0.9μg、上限1.2μgの脂肪が含まれている。脂肪1gは9kcalのエネルギーを有するので20歳代の平均的男子の場合、体重64kg、体脂肪率20%とすると、体脂肪は12.8kgとなり、これをエネルギーに換算すると115,200kcal、ご飯で茶碗720杯分である。これは20歳代男子のエネルギー所要量からみると45日分のエネルギー量に担当する。成人の軽度の肥満では、個々の脂肪細胞の脂肪含有量が増加し、細胞が肥大化(hypertrophy)する。しかし、脂肪細胞の大きさには限界があるため、さらに過剰の食物をとると脂肪細胞数の増加(hyperplasty)を引き起こすことによって獲得したエネルギーを逃すことなく貯臓する。従って、脂肪細胞の増殖メカニズムを鮮明することは極めて重要な意義を持つと考えられる。
動物は本来常に「飢え」に直面しているので、活動のためのエネルギー源を体内に貯蔵しておくことが生き残るための必須条件である。従って、動物がエネルギーを体内にため込む機構は極めて巧妙である。生体のエネルギーはもっぱら、摂取食物に依存するわけであるが、脂肪組織はー連の脂肪細胞の増殖と分化の過程を介して極めて効率的にエネルギーを脂肪の形態で貯蔵する。動物は本来生存のためにエネルギーを脂肪として体内に保持しやすく、かつ放出しにくいという生理的特徴がある。このような本質的な特性は、脂肪組織の形成能力の発達という形でヒトの肥満発症と深く関わっていると考えられる。
脂肪細胞の形成過程は、大まかに次の5つのブロセスに分けて考えることができる。(1)幹細胞が脂肪細胞としての素地を獲得した脂肪芽細胞(adipoblast)に決定される過程、(2)脂肪細胞が前駆脂肪細胞(preadipose cell)にコミットメントされる過経、(3)前駆脂肪細胞の増殖過程、(4) 前駆脂肪細胞が未成熟な脂肪細胞(adipocyte)へ分化する過程、そして(5)未成熱な脂肪細胞に脂肪が蓄積する成熟過程、である。また、各過程において脂肪細胞を特徴づける遺伝子が整然と発現してくる。このうち前駆脂肪細胞の増殖過程については殆どわかっていない。そこでわれわれは、まずマウス由来の倍養細胞(3T3-L1,Ob1771など)を用いた研究から、前駆脂肪細胞の増殖には細胞分裂のある時期に特定の増殖因子が必要であることを明らかにした。前駆脂肪細胞は、形態的には線維芽状態を呈し細胞外マトリックスに強く依存して増殖・分化する。増殖因子類の要求性も一般的な線維芽細胞と非常に類似している。これらの因子類は大まかに3グループに分類される。つまり、細胞周期上のGo前半に作用するPDGF、FGFなどのコンビテンス因子、また、Go期の後半に作用するプライミング因子(EGF)である。さらに、G1期に作用するインスリン、インスリン様成長因子 (1GF-1,-2)などのブログレッション因子が必要である。生体内での前駆脂肪細胞の増殖は、生体内濃度の観点からこれらの因子のうち、特にコンピテンス因子に強く依存していることが判明した。
そこで我々は、前駆脂肪細胞の増殖をコントロールするコンピテンス様因子が白色脂肪組織に存在するのではないかと考えその因子の探索を行った。その結果、ラット白色脂肪組織中に前駆脂肪細胞の増殖を特異的に促進する分子量約2.5万のタンパク牲のコンピテンス様増殖因子(前駆脂肪細胞増殖因子、 preadipocyte growth factor ;PAGFと命名)を発見した。本因子は成然脂肪細胞が生成・分泌し、脂肪組織の過形成を制御する最も重要な因子であることが推察された。即ち、本因子の発現制御が、脂肪組織の形成・発達ひいては組織過形成・肥満発症のカギを握っていると考えられる。そこで本研究においては、上記のように肥満発症のキーレギュレーターとなるであろう前駆脂肪細胞増殖因子(PAGF)に関して、特に小児肥満に直結しやすい脂肪細胞増殖型肥満の観点から摂取栄養素、特に脂肪やその構成脂肪酸とPAGFの発現誘導に関して遺伝子、タンパク質、活性レベルでの比較検討を行い、肥満症で予防・改善のための新しい知見ならびに基礎研究の方向性を探索することを目的とした。

書籍ページURL
https://www.j-milk.jp/report/paper/commission/9fgd1p0000022lsv.html

2015年9月18日