1995年
著者:安本教傅
所属:京都大学食糧科学研究所

  • 健康科学
  • 免疫調節・がん

序論

乳はヒトを含めた哺乳動物が生まれてからはじめて口にする食べ物であり、唯一摂食されることを目的に生合成された完全食品であると言われる。誕生したばかりの新生動物は、発育過程の初期において要求されるタンパク質、糖質、脂質およびビタミンやミネラルなどの栄養素を乳のみに依存している。なかでもタンパク質は生体機成成分のアミノ酸の給源やエネルギー源として重主要である。しかし、乳汁には単に栄議源として重要な成分のみが含まれているわけではない。新生動物は親動物に比べて外部から侵入する異物に対する生体紡御機能が発達していない。そのため新生動物はその身を守るために自らの免疫機能を、外部からとりわけ母親から食物として与えられる乳を通して補強される必要がある。この役割を坦っているのが、乳清に含まれる分泌型免疫グロブリン(sIgA)をはじめとして、リゾチーム、ラクトフェリン、補体などのタンパク質であり、また、マクロファージやリンパ球の細胞成分である。
乳中の抗体はウイルスや細菌、エンテロトキシンに対する抗体をも含んでいる。sIgAは、IgAが2分子くっついたダイマーとJ鎖の結合物質が上皮細胞で生成された分泌片と結合したものであり、乳児消化管内でのプロテアーゼ作用やpHの変化にも安定で、かつIgGより親和性が強い。陰性の電荷をもつ大腸菌表面は疎水位で、このことが大腸菌が消化管内の粘膜に付着しさらには侵入する条件の1つとなるが、slgAが大腸菌に付着すると菌の粘膜への接着を阻止防止し、安定性と相伴って変化を受けずに糞便中に排泄される。
ラクトフェリンは、ラクトトランスフェリンとも呼ばれ、トランスフェリンに極めて類似したタンパク質である。これらのタンパク質は、いずれも分子量がおよそ77,000、1分子に鉄2原子を結合する性質がある。トランスフェリンは脾臓から網状赤血球へ鉄を運ぶキャリアータンパク質として重要であるが、ラクトフェリンは乳汁のほかに唾液、鼻汁、胆汁などの外分泌物や白血球などに存在し、感染防御因予の1つとして注目されている。このタンパク質は、人乳では初乳に0.5%、常乳に0.2%含まれているが、牛乳では初乳に0.08%、常乳には0.04%に過ぎない。乳汁中のラクトフェリンは鉄不飽和の状態にあり、大腸菌、ブドウ球菌、逮鎖球菌などに対する静菌効巣のあることが知られている。Esc1hrichia coli 0111の培地に乳中の各種タンパク質を添加して細菌の増殖状態をみると、カゼインやα-ラクトアルブミンには静菌効巣が認められないが、ラクトフェリン、リゾチームやγ-グロブリンは細菌の増殖を抑制する。ところが鉄飽和のラクトフェリンにはこの効果が認められない。つまり、ラクトフェリンは細菌の増殖に必要な鉄と結合して、細菌に利
用できなくすることによって静菌効果が発揮される。
乳汁には種々の酵素が存在している。乳汁中のリゾチームは、その一次構造の74%において、ニワトリ卵白と同じく細胞壁のブロテオグリカンのN-アセチルグルコサミンとN-アセチルムラミン酸の間のβ-1,4結合を加水分解して殺菌作用を示す。主としてグラム陽性菌に作用し、少数のグラム険性菌にも作用する。人乳中には、牛乳中の約3,000倍も多いリゾチームが含まれている。リゾチームは、上述のラクトフェリンとともに感染防御因子として機能し、sIgAとの共存下においてラクトフェリンの静菌効果を増強する作用がある。また、糖質に関係のある酵素としてはアミラーゼがある。人乳中に多量に含まれているアミラーゼはデンブンを分解し、エネルギー供給に関与している。100mlの初乳中には、20gのデンプンを1時間で分解できる量のアミラーゼが含まれている。胃内のペプシンによる消化に対して抵抗性が強く、小腸内でも活性が残っており、乳児の消化に役立っていると考えられている。
通常、乳とりわけヒトの母乳は極小米熟児や低出生体重児栄養の目的で凍結保存されており、牛乳の主要成分は乾燥保存されることがある。その際最も望まれることは、タンパク賀、脂質や糖質の栄養学的成分、それらに関連したアミラーゼのような酵素のみならず抗体成分sIgA、リゾチーム、ラクトフェリンなどの生体紡御を司る免疫性成分が可能な限り源乳に近い状態で保存されることである。一般に、タンパク質が生理機能を発揮するときは、ポリペプチド鎖固有の立体構造が保持されていなければならない。ところが、タンパク質は加熱、凍結あるいは乾燥処理された場合、規則正しい三次構造を失った変性を起こし失活してしまう。また、生細胞の生理機能はこのような処理に際し障害を被ることは言うまでもない。このように考えると、免疫学的重要性を加味した乳汁の凍結あるいは乾燥保存は重要な謙題であるにも拘わらず、まだ未解決な問題点も多く残されているのが現状である。最近、非還元性二糖類であるトレハロースが凍結、乾燥状擦でのタンパク質や脂質を保護するという生理機能が注目を集めている。砂漠に生息する植物のSe1aginella lepidophyllaや昆虫のクマムシは、日中50'C以上にもなる過酷な条件下では脱水し、生理的に仮死状態となる。しかし、ひからびたこれらの食物は降雨によって水分が再び供給されると活動を再開する。1世紀以上も乾燥状態におかれた生物でさえ蘇生に成功することが報告されている。このようなAnhydrobiotlc organismsと呼ばれる生物に共通するこの復活現象には、二糖類の一つであるトレハロースが関係していることが明らかにされた。脱水ストレス条件下において高濃度に生合成・議積されたトレハロースは、乾燥に伴うタンパク紫や生体膜の変性を防止することが知られている。トレハロースは、D-グルコース2分子がα1-1結合でつながった非還元性二糖類で、古くからミコース、ミコシド、マッシュルーム糖とも呼ばれてきた物質である。トレハロースは、120℃の高音またはpH3やpH11などの酸およびアルカリ処理に対しても化学的にきわめて安定である。トレハロースは植物、酵母などに含まれ、ヒラタケ、パン酵母、エビでは乾燥重最あたり約1O-25%も含まれている事実から、食品に添加する化合物としても安全である。さらに、ビフィズス菌の増殖効果もあると報告ざれている。近年では、トレハロースはタンパク質および脂質の凍結や乾燥に対する保護作用から、細胞から個体に至るまで生命の保存や再生に係わっていることが分子レベルで明らかにされつつある。一方、工業約な観点からは、トレハロースはこれまで大量生産が難しく1kgあたり数万円の価格であったが、味の素〈株)または林原生物化学研究所が1kgあたり数百円の安価で提供できる生産技術の開発に成功している。このことは大量の儒要が見込まれる食品分野へのトレハロースの応用利用を可能にしている。そのため、現在、甘味料、清涼飲料、冷凍食品や乾燥食品などへの利用や高価な医薬品の
保存安定剤などさまざまな用途が世界的規模で期待されている。
そこで、本研究では、栄養価の優れた乳汁にトレハロースを添加することによって、牛乳をより安全にかつ経済的に保存することを試みるとともに、乳汁に含まれる免疫学的成分のより一層完全に近い凍結および乾燥保存を試みることを目的とした。

書籍ページURL
https://www.j-milk.jp/report/paper/commission/9fgd1p0000022lsv.html

2015年9月18日